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本覚寺について

本 尊  宝冠釈迦牟尼仏(毘盧遮那仏)
草 創  本覚寺は北条氏の外護を受ける天台宗の寺院であったが、いく度かの盛衰を経て、永禄元年(1558)、天台宗を曹洞宗に改宗したとある

開  基 徳松院殿巌翁宗江大居士
不破源六広綱公

中興開基 祥雲院殿瑞峰道祐大居士
杉浦五左衛門公

再中興開基 龍集院円海宗曼大居士
坂倉又吉氏

【由 緒】

寺伝によると当寺は天台宗の寺院であったという。永禄元年(1558)、正眼寺より玄沢祖栄を創建開山として招請、天台宗を曹洞宗に改宗。その後、戦乱が続き、寺はしばらく衰微した。しかし、天正8年(1580年)竹鼻城に不破源六広綱が入城。城の改築と共に父・綱村(本覚寺殿大雲義沢大居士)のために、正眼寺(愛知県小牧市)より源経祖玄を招請し、本覚寺を竹鼻城主の菩提寺として復興。曹洞宗寺院としての歴史と伝統の礎を築いたのである。
その後、天正12年(1584)、小牧長久手の戦いにおいて、広綱は織田方(織田信雄・徳川家康)に味方し竹鼻城に籠る。豊臣(羽柴)秀吉は長久手での敗退の後、織田方を小牧山城より引き寄せる為、竹鼻城を水攻めにし、城は落城。代わって岐阜城主織田秀信の家老杉浦五左衛門が竹鼻城の入城するも、竹鼻城主の菩提寺として本覚寺を残し堂宇の整備に尽力したのであった。しかし、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいて杉浦氏は西軍に味方し竹鼻城は落城、本覚寺も焼失、当寺は平地として数代を過ごすことになる。
天和(1681~83年)の頃、鑑室長亀が住職となり元禄3年(1690)、正眼寺より乙先秀存を勧請開山とし本覚寺を復興する。
安永3年(1774)11月10日、水害に遭い建物は流出。しかし、当地の名家・坂倉家により天明6年(1786)、再建され坂倉家を再中興開基家とする。
明治24年(1891)10月28日、濃尾大震災により、建物は山門を除き倒壊した。時の住職・豊山霊牛は浄財を勧募し、大正4年(1915)に伽藍を完成させ今日に至っている。

【世 代】

2世 久岩伝昌   3世 大融 貞
4世 逸山 秀   5世 透峰梅関
6世 博道 広   7世 洞天 仙
8世 梅嶺大技   9世 体定玄洞
10世 要門亨道   11世 勝山道因
12世 来応英順   13世 鉄柱越門
14世 全応一牛   15世 大賢玄宗
16世 宗謙喚応   17世 豊山霊牛
18世 絶学貫道   19世 諦観紀元
20世 鐡山豊牛   21世 面山靖雄
22世 龍門陵賢

【文化財】

本堂の「雲龍の絵天井」が岐阜県重要文化財に指定されている。
この絵天井は中央に鏡を作りその全面を用いて極彩色の雲龍を描いた板絵である。東洋の「龍」は霊獣として神秘的な霊力の象徴として扱われ、芸術の好材料とされた。主に雨を降らす能力や進化系の最終様態とする説が有力である。
この絵天井は龍の鱗(うろこ)や髭といった現代人がイメージする龍の全身をリアルに描きだしている。この絵天井の源流と思われるものに京都南禅寺の東照宮内の天井絵、狩野探幽作の雲龍がある。
当初の制作は寛永三年(1850)幕末の勤王家、大和絵師、宇喜多一蕙の筆による雲龍であるが明治24年(1891)濃尾大震災で本堂が倒壊、大正3年(1914)宇喜多一蕙の原画を、画系の後嗣、森村宜稲が修補した。

【史跡】

本覚寺墓地に美濃の聖人、永田佐吉の墓碑がある。