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橋流水不流 「はしはながれて みずながれず」

橋を渡るとき、橋は流れてゆくが、水は流れない。無心で行動するときは、物事の在り方がもっと本質的な形で見えてきます。

本覚寺の住職の任を頂いて七年の歳月が流れました。大任を寺族ともども全力で取り組んでおります。全力で取り組んでいるからこそ見えてくるものがあります。

さて、この「橋流水不流」ですがイメージはこうです。若葉が茂る大自然の中、渓流に沿って歩いて行きます。聞こえるのは、風の音、水の音だけです。ふと橋上に立ち止まって、サラサラ流れる谷川を見つめます。いつの間にか、大自然の中に自分が没入して、聞いている自分がなくなってしまいます。谷川が流れているのか?自分が流れているのか?橋が流れているのか?自分と流れが一枚に成りきった「心」の状態を、「橋は流れて水は流れず」と表現しているのです。

この一節の前には「何も持っていない手で畑を耕し、自らの足で歩きながら牛に乗る」と言う文章が書かれています。すごい矛盾した言葉の連続ですね。橋は流れることはない。その水は流れないことはない。橋の下、水が流れていくのが常識である誰もが信じて少しも疑うことのない常識ですが禅は根本からひっくり返して、分別心を超越した自己にせまって行くことが大切なのです。橋の上を歩くことも、鍬を使うことも、牛に乗ることも一つの手段です。これらは時代と共に橋が架かってることが当たりまえになり、耕運機が畑を耕し、日本国民の一・五人に一台の車を保有しています。川があり、大地があり、道があることは変わらないですが、そこで生きている私たち人間が手段を変えているのです。だからこそ、無心に行為をするとき、手段は人間の中に一体化され、意識から消え去ってしまいます。

私の僧侶としての生き方と、住職としての責務は全く違ったものです。地域に根づいてこそのお寺であるように、地域行事などにも積極的に取り組んでいます。

大きな流れではありませんがコツコツと小さな事を積み上げていければお釈迦様の教え、曹洞宗の教え、そして本覚寺の在り方が後から出来上がってくると信じています。これが信仰であるのでしょう。

移り行く世の中で「住職とはこうゆうものである」という意識にとらわれずに邁進させていただけている環境を与えていただけている本覚寺檀信徒の皆様には感謝申し上げます。

「橋流水不流」無心で僧侶としての生き方を突き詰めていけば私の「本覚寺住職像」が浮かび上がってくると思います。又、新たな試みと共に「皆様に必要とされる」本覚寺が出来上がってこれるよう精進いたします。

「焦らず・驕らず・一生懸命」に物事に取り組んでいきます。

「本覚寺寺報17号」