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祖師西来意 庭前の柏樹子

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本覚寺の客殿に『祖師西来意』『庭前の柏樹子』の簾が掲げてあります。

この書を書かれたのは私が永平寺で修行させていただいた時の住職であられる宮崎奕保禅師さまです。

さてその意味ですが禅問答集で中国宋の時代に著された『無門関』(むもんかん)の一文です。

禅問答とはアニメでおなじみの「一休さん」に出てくるトンチ=問答と捉えて結構です。我々は公案と呼んでいます。一人の僧が趙州和尚に問うた一節です。
Q「如何なるか是れ祖師西来意(そしせいらいのい)」
A「庭前の樹子(ていぜんのはくじゅし)」
この問答には続きがあります。『趙州録』
Q「和尚、境(きょう)を将て人に示すこと莫かれ」
A「我れ境を将て人に示さず」
Q「如何なるか是れ祖師西来意」
A「庭前の柏樹子」
語訳してみます。
Q達磨大師が遠路、インドから中国へと来られた真意は何なのでしょうか
A庭前の柏樹子
Q私は禅とは何か尋ねているのです。心の外の物で答えないで下さい
A私は心の外の物で答えてなどおりません
Q僧は再度問うた
A趙州和尚は、庭前の柏樹子と再度同じ文語を答えた。
答えになっているようないないような問答ですよね。

さて「祖師西来意(そしせいらいのい)」とは達磨大師さまが仏教の真髄である禅を伝えるため、インドからはるばる中国へ来られた意味とは何かお伺いをたてるのですが、総じて「仏法の根本の意味」で「仏」「悟り」とは何ですかと問いているのです。

道元禅師さまが著された正法眼蔵の中でもこの問答を坐禅弁道の結果として得られた境地と賞賛されています。
これに対して、趙州和尚は、「庭前の柏樹子(ていぜんのはくじゅし)」つまり“庭に茂っている木と同じだよ〟とだけお答えになりました。柏樹は、常緑樹のカイヅカイブキと同種の松に似た「このてがしわ」です。インドでは仏像を彫るのに白檀を使っていましたが、中国では手に入りづらかったため、柏樹で代用したとされています。なので中国の寺院には数多の柏樹が植わっていたと推測されます。因みに「子」は助字だと思われますのでここでは意味はありません。
「和尚、境(きょう)を将て人に示すこと莫かれ」
さて答えがよくわからない僧は続けてたずねます。〝私は禅とは何か、仏法とは何かと聞いているのですよ。境、即ち心の外の物で答えないで下さい〟と願うのです。
「我れ境を将て人に示さず」
いや、私は決して心の外の物で答えてはいないよ。そこでまた、僧が問う。「如何なるか是れ祖師西来意」。趙州和尚、また厳然として、「庭前の柏樹子」とお答えになったのです。
さて境とは形のあるもの(万物)です。この僧は心と境を対立的に見ているので、二度も同じ質問をしてしまいます。例えば皆さんは、何かを見たり聞いたりして自分なりに考えを持ちます。その見ている聞いているという事と考える事は一体になった状態です。それを皆さんの頭が分別して、自分が目に見えたもの見ている。音を耳で聞いている。そして考える事を無意識に分けて考えてしまうので、それを元に戻して見たり聞いたり考えたたりする事を受け入れる。庭前の柏樹は自分がそのまま柏樹であるのです。また柏樹は葉の裏と表が判断しづらいので、「万物は表裏一体であるよ」とお答えになっているのかもしれません。

祖師西来意だとか、禅だとか、仏だとか、悟りだとかいう小理屈は捨てきって「無心」の心を趙州和尚は示そうとしたのだと思います。もちろん達磨大師さまが中国に禅を伝えたのは素晴らしく偉大なことで、禅宗の僧侶であれば誰でも尊敬している存在です。ですが、達磨大師さまが来ても来なくても、「仏」や「悟」りは、人の足元にあるのでそれをしっかりと感じ取ってくださいと示しているのです。
客殿は沢山の方に利用していただき、この場所で仏教のみ教えに出会っていただきたい。それは本覚寺を預かる私やお庫裡の願いです。行事やイベントを毎月開催させていただくのはお寺に足を運んで頂きたいからです。それを行っていくことが本当に正しい仏法への導き方なのか・・・それを自問自答する毎日ですが、足元をしっかり見ながら自分自身を点検できているか。表裏一体の「無心」の境地を実践しお伝え出来ているのか。

そんな自戒の意味を込めて『祖師西来意』『庭前柏樹子』の簾を客殿に掲げさせていただきました。私やお庫裡の禅や仏や悟りはまだまだ発展途中です。答えはお釈迦さまや道元禅師さまが示しているのですがその意味を体感し、実践し、皆様にお伝えする能力はまだまだ未熟です。「とにかく一生懸命に前に進むしかない」これが「無心」の実践だと感じています。

 

本覚寺寺報18号